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インドで古くから伝わる伝統ヨーガの技法を伝え継ぐ

インドで古くから伝わる伝統ヨーガの技法を伝え継ぐ

2015年12月03日 『Hus 日記』

11月29日(日)自己を知るための「サーンキャ哲学」講演会報告
12月3日(木)
10日後のインドでの授業準備に今崖に立っておりますが。。。。まずは先週日曜日に行われた「自己を知るための"サーンキャ哲学”」の講演報告をさせていただきます。

ヨーガを行っていく上で、また人生を歩んでいく中で、当たり前ですが知っておくべきこと。。。「自己」
自分のことは自分が一番知っている・・・そう聞こえてきそうですが、ではなぜ自分がわかっていながら自分を「苦」に追い込むのか、追わずとも「苦」を感じてしまうのか?お釈迦さまは、そこに関して「一切皆苦」すべてが「苦」だと言われてるので、それで納得できますが、しかし、日々起きる事、また満たされないことや、不具合が生じると「苦」と感じて悩み、苦悩に陥りますね。日本はストレス社会と言われているので「納得」できてない現象がすでに起きています。皆が皆ではないと思いますが・・・

そう、それで日曜日に行った第3回目のヨーガの勉強会、今回はこの「サーンキャ哲学」でした。ヨーガも、アーサナやアジャスト法(実際、アーサナ中に人に触れることはできないのでこれは古典文献にはでてきません)ブロックやロープを使った技法(これも実は古典文献にはでてきません)には人が多く集まりますが、大麻氏も言われていましたが、この内容にこんなに人が集まるとは驚きました、と。それも熊本の片田舎山鹿に・・・山鹿の地に根を下ろし、インドの大学で学んだ古典の教え、グルから学んだヨーガの知恵と恩恵を広めたい・・・10年の思いがここにきて少しずつ広がり、Hus labで学んだ指導者の皆さんから、その生徒さん方へ。生徒さんたちがこの哲学に興味を示されるということは、やはり指導者が正しく学びを下ろしている証でもあり、そのことを大変うれしく思います。私は、何かの組織を作るつもりはなく、離れていても一つのことでつながる家族集団が作りたい、ただそれだけを想い今に至っています。疎遠、遠距離であっても、つながっている「家族」のように・・・

お~今日は講演の報告でしたね!

「シンプルだけど、とても深い内容で、完全に理解することは難しかったけど、なんとな~く感覚として理解が深まったと思います」

これはある参加者の方のアンケートにあった言葉です。

難しかった・・・これは多く聞かれた言葉でした。私もそういう思いが出てきてました。
では、なぜ難しかったのか!?

今回の大麻氏の講演資料の題は

「なぜ、観てしまうのか?」

いつも観ていること、見ているもの、一瞬一瞬、眠っていても、目を閉じていても、瞑想中であっても、行っている「観ること」「見る"物”」この当り前さ、故に難しかったのです。シンプルだからこそ深く難しい・・・

それでは、この写真をちょっと見てください。


そう「あれ」ですね。

「あれ」・・・・みんなが同じではないでしょう。

「赤い」と思った人もいるでしょう。「白」「蜜がある」
「リンゴだ!」これが大半ではないかと思いますが。。。。

または、「なんで逆さまなの!」「画像が悪いじゃない!」感情がわいてきた人もいるかもしれません。
「食べたい!」欲求が出てきた人も!?

実は先日、長野から主人のお世話になった先生から送られてきた長野の林檎です。それは私しか知りません(どうでもいいことですが・・・)

これが赤ちゃんが見たとしたらどうでしょう。

「???????」

ですね。そう、なぜいろんな見方があるのか、それはそれぞれの経験知が違うからです。大麻氏はこのことを「記憶の蔵」で表現され、日常レベルで見ているものは「物」なのか、

「私が見るから、あなたが在るのか。
 あなたが在るから、私が見るのか。
 One of them または Oneness 」

これが大麻氏のレジュメの1ページ目にあった参加者へのなげかけで、これを質問されたときに、ある方が「同時に!」だと言われました。これが顕現世界で起きていること、サーンキャ哲学でいう精神的原理(プルシャ=魂=本来の自己=意識=観察者)と物質的原理(プラクリティ=非精神・物質だから意識のないもの・・・)の結合です。それによって万物が展開されているのです。

日々「見ていること」、そこに映し出される「物」は実は「なきもの」だというのがインドの考え方でマーヤ(幻想)と言われるものです。しかし、私たちは日々起きていること、対相手、見ているもの(さも、あるかのようにして)に心惑わされ、それを現実または「心」が自分だと思って「苦」に陥ります。トリックに日々はまってるのです。

なぜ「リンゴ」という発想!?、思いが出てきたのか、それは各自が持つ「記憶の蔵」から瞬間のうちに出てきたものであり、実は「記憶の蔵」を通じて見ているのです。

このサーンキャ哲学は4世紀、5世紀ごろインドのイーシュワラクリシュナがまとめたものであり、それは人々がトリックに陥らないために考えだされた哲学なのです。人は生きているかぎり3つの苦に悩まされるといい、①自らが引き起こす内的な肉体的・精神的な苦 ②危害を受けることなどの外的要因による苦 ③気候や神の怒りなどの自然災害、運命的な苦 がそれです。ヨーガ、そしてこのサーンキャ哲学は「苦の原因の除去」の方法を提示しています。また、ヒンドウー教のヴェーダは苦を解消する方法を確かに伝承していますが、サーンキャ体系が教える方法がそれよりも優れていると言われます。

イーシュワラクリシュナによれば、精神原理(プルシャ=魂=本来の自己=意識=観察者)は、物質的原理(プラクリティ=非精神=意識のないもの)から派生物が生じてくる過程を離れた場所から観察する、と。観察することによって日々起きてることがさもあるかのように見えているのです。(万物が生じる)本来の自己は観察者なので、なので「苦」に陥ることも、悩み、不安になることもない、といわれるのです。

その精神が「観る」こと、日常のシンプルな活動をワイド化して2時間に渡って大麻氏は説明をされたのです。そのチャートのわかりやすさに(がゆえに難しいと感じた方も)感動しました! 大麻氏は大学での客員教授もされている方なので、今回は本当に哲学レベルでのお話を聞けてよかったです。

私も指導者育成クラスでこのサーンキャ哲学をKaivalya dharma大学で使っていた資料を使い、また実体験と照らし合わせながらここを説明しますが、「見る」ことをここまで説明はできませんでした。なので今回とても勉強になりました。

先ほど出てきました、各自が持つ「記憶の蔵」ここを変えれるんですか?と聞かれた指導者がおられました。

記憶は消せませんが「変えれます」ものの見方を変えれるように、そこをすり替えて見ればいいのです。いいかえれば、偏見でみないことです。「私」目線で見ようとするから、偏見、比較、妄想、エゴ、欲が生じるのです。そして、そこには「苦」が必ずと言っていいほどツインとなって伴います。

しかし、これが「瞑想」となると、「記憶の蔵」をどうすることもせず、蔵から何かが出てきてもそれに触れずにほっとく・・・目を閉じて映し出されるスクリーンを白いボードの状態にし、いかにして「本来の自己」を見出すか・・・

「瞑想とは、自分とはなんぞやを知る努力をすることである」

これはグルのMaaが教えてくれた言葉です。
そして、白いボードのまま、何もせず、努力もなく、蔵さえも忘れ、「私」さえもがなくなった状態がサマディ(三昧)になるのです。

そう、ある方がアンケートに、
「この花を見た時に、美しいと感じてはいけないのですか?ありのままとは?」



美しいは美しいでいいのです。しかし、枯れてる花、道路わきに咲く小さな花それを見た時にもそう感じる心があるか・・・

ヨーガは、「よい」「悪い」、「楽しい」「苦」である、そこを問いません。。。。


今回のサーンキャ哲学講演の内容をさらに自分の中に落としたい、そのような方がおられましたら、復講を行いますので、年明けにでもご連絡くださいませ。またHus labでは冬季の「指導者育成とヨーガの基礎コース」を受け付けておりますのでご希望があれば、まずはお話からしていきましょう。1月にスタートします。
12月の案内に2016年3月までの勉強会の案内をアップしますのでそちらもご覧ください。

只今、崖におります。英語でいかに今日の説明ができるか資料作成中・・・・再来週はインドでそれを試してまいります。

2015年16日(水)~31日(木) 渡印中   渡航中は代行レッスンを行います。メールでのやりとりはできますのでお問い合わせ等ありましたらご連絡ください。

runrun438706@yahoo.co.jp (西守)










 
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